今日は定休日だから、
ブログを書くのもお休みにするつもりでしたが、
4月20日は內田 百閒先生の命日というのをどこかで見て、
思わず本を読み返してしまい、投稿画面を開けてしまいました。
內田 百閒先生といえば、昭和の小説家・随筆家で、
相当な乗り鉄で(『阿房列車』)相当な小鳥好き(『阿呆の鳥飼』)です。
暗闇やしずけさの中に、もの悲しさを描く小説とはうらはらに、
自分の趣味全開の随筆は、とにかく自由人でチャーミングで、
どこかギャップを感じて魅了されました。
先生を詳しく知ったときは、
岡山の造り酒屋の一人息子さんで、
その酒屋の屋号が、私の本名と同じことを知り、
私も小鳥が好きだったので勝手にご縁を感じるものの、
私の地元の「赤穂浪士が大嫌い」ということを知り、
勝手に振られたみたいな気持ちになったことがありました。
好きなアイドルが突然結婚してしまったり、
密かに思っていた人が、自分とは真逆のタイプが好きと知ったときのような気持ちでした。
そんな先生への気持ちを思いだして、今日は『ノラや』を手に取りました。
『ノラや』内田百閒 中公文庫
小鳥派の先生が、
それまで余り好きではなかった野良猫「ノラ」を飼う流れになり、
そのノラが失踪してしまって、突然の別れに嘆き悲しみ、
その次に出会った猫「クルツ」も突然の病死となり、
いうなれば二匹の猫との心温まる日々の描写から、突然の別れとその後を綴ったものです。
最初は猫という動物を観察するような、好奇心あふれる先生の様子から、
だんだんと家族になって、かけがえのない存在になって、
そんな二匹が、突然、目の前から消えてしまう。
ただただ胸が締め付けられ、読むのが辛いときもあるのですが、
このけしてうわべだけではない、むきだしの人間らしさに魅了され、
どこか淡々とした表現で、少しずつ死を受け入れ、
「ノラ」と「クルツ」との関係性を再構築し、再配置していく様は、
まさにグリーフの回復モデルを辿っているなと思います。
引用
「人間の幽霊は、その幽霊を見る人の為に出ると考へていいだらう。況んやクルは幽霊ではない。クルはいつも私共の心の中に安住してゐる。」
内田百閒『ノラや』中公文庫
グリーフケアを学んでいて思うことは、
誰だっていつか死ぬのが生き物なので、死別を経験しない人はいないということと、
悲嘆の強さや表現は、個人差があって当然で、それと愛情の深さは違うということ。
悲しくても表現できない人もいるし、態度や言動に表れにくい場合もあります。
複雑性悲嘆に陥り、二次的なトラブルや、日常生活もままならぬ場合もあれば、
日常生活は普通に送れ、自分でも悲しいのかどうか、分からないという方もいらっしゃいます。
ふらっと帰らなかったノラのように、災害やコロナ禍の現在ように、
看取りができなかった、対面が叶わなかった「あいまいな死別」はなおさらです。
回復にかかる時間も、人それぞれなのです。
それでもいつか、故人をそばに感じながら、ともに生きることができるように。
そう願わずにはいられません。
今日は図らずもグリーフについて考えさせられた夜でした。
百閒先生、ノラとクルツに会えたかな。
Renatus Lux